小話

中学3年の5月頃の事。僕はバドミントン部に所属していて、土曜日の練習に参加していた。リレー走をやる事になって、まあバトンを受けとる姿勢で前の走者を少し緊張しながら待ってたわけで。少し腰を落としてスピードが出ますようにとでも念じながらバトンを手に当てられて、必死に走り出した。でも、普段より体重が前に入っているな、これはスピードが出そうだと5歩目くらいに思った刹那、足(膝の下あたり)に激痛。俺の膝の下に向かって誰かが思い切り金づちを叩いたような感覚。転んで倒れてみると、もう足が動かない。そんでもってあり得ない、今まで経験したことのないような痛みに襲われて一瞬何もわからなかった。本当に何も分からないなんてのがあるのかって、本当にあったよ。一週間くらい前からじんわりとくる痛みに気付いていたけど、今思えば爆弾ってやつだったのかもしれない。それで話を戻すと、顧問の教師が「コートの中だから移動しよう」って僕の体を引っ張って移動させた時は、まあ喚いたね。あそこまで死ぬかと思った瞬間はない。

 

それでいつの間にか救急車が来てて、担架に乗せられて2階の体育館から運ばれた。そこでの激痛の記憶はないから、多分運んでくれた人がうまいことやってくれたんだろう。呻く屍と化した中学生は、救急車の中に見事収容されたってわけだ。

救急車の中では特にサイレンはうるさくなかった。もしかしたらうるさかったのだが耳に届いていなかったのだろう。その時の自分の耳は、自分の呻く声を聞いてなんとか痛みを堪えているという事を聞き取って頭の中に耐えろと信号を送りつける事に忙しかったのだろう。救命士のおっちゃんとささやかな談笑なんてする暇もなく、あっという間に病院に着いた。今思えば患者の人達の前を担架で堂々と運ばれていたのは、まあ恥ずかしい。その時のそこにいた患者共は、普段の朝に登校している時に我々中学生には程遠いご苦労な世界、仕事に向かうため車道を走っていく労働者の車ほどに感心は向かなかった。

検査やらレントゲンやら色んな事をやっている時の記憶はほとんどない。子供だからこういう面倒な事は親が覚えておけば良いと無意識にたかをくくっていたに違いない。

そんで病室に運ばれて、入院生活が開始。最初に食べた病院食は五目そばだった。病院特有の薄味だの不味いだのという噂はそれを食べた瞬間杞憂であったことを知り、給食みたいなもんやなと美味しく頂けた。

端から端まで貴重な経験をしていたのに、あまり入院中に思い出に残るイベントは発生しなかった。友人も少なく、10人ほどが来たのは今となっては感謝しかない。だが部活仲間であった3人のバカ共が来なかったのは、退院後「お前が入院した病院を探すのが面倒だった」と聞き、ああこいつらに期待してはいけないと改めて思ったね。担任に聞けよ。

そういえば担任も来なかった。何故だか知らんが良く分からない理由を話されたような記憶がある。別に来てほしいわけでもなかったので気にしてはいない。来てもらったところで話す事なんて状況説明かたわいもない世間話しかなく、まるで刑事が取り調べをしにきたような雰囲気にしかならないだろう。

とにかくトイレの時は不便だった。足をコルセットで固めているから便座にコルセットが当たって座れない。立ち小便にも松葉杖では努力虚しくズボンすら降ろせなかった。これから足をコルセットで固める事があるならばアドバイスしよう、危機は1週間は続くということを覚悟してほしい。

2週間ほどの入院生活はあっという間だった。まるで寝ていた時のような感覚だ。朝起きて朝食を食べ、ベッドの上でゲームをやったり手を付けないのに勉強道具を机の上に無造作に散らかす遊びをしたり、リハビリをやったりしているうちにもう夕方になっていて、夕食を食べた後はゲームやってて、眠くなったら眠るなんてのが14回ループされただけであった。退院となり荷物を持って外に出た時のあの感覚はなんとも気持ちが良かった。帰り道の車で外を見ていると、旅行に来たような初々しさを感じ、楽しい楽しいドライブだった。

かくして、俺の入院生活の話は終わり。ここまで読んだ人は一報欲しいものである。直々に感謝の意を伝えたいからだ。自分の生活を振り返って書き連ねるのも良い暇潰しになった。では、このへんで。